​関連・系統指導

1 はじめに

 文芸作品において、*<ものの見方・考え方(認識の方法)>を使うと、出てくる人物たちを通して、ものごとの本質や人間の真実、作品世界がより深く、味わい深く分かったりします。そのことは各学年の教材分析のページに譲ることにします。
 しかし<ものの見方・考え方>というのは、何も文芸作品を分かるためだけの方法ではありません。すべての分野において有効であり、したがって、これを学ばせることが教育的に意義があることだということ、いやこれこそが基礎学力だと言っても過言ではないことを、このページで書いていきます。

 

2 人間の文化は<ものの見方・考え方>を基盤にしている

 池上嘉彦氏(東大教授)が「記号論」のどこかで、同じ人間だから洋の東西を問わず思考形態(考え方)はどこか似ている、建築物のような有形なものであろうと思想や言語のような無形なものであろうと、人間が営々と作ってきたあらゆる文化的なものは、考え方に共通性があるのだからどこか共通性があるはずだ、というようなことを書いていたような気がします。有形な建築物と無形な言語とに何らかの共通性があるというのは奇異な感じがしますが,時代の思想(無形な物)を形ある物として表現したのが芸術作品だとすると,なんとなく分かるような気がします。(今、氏の著作物が見あたらないので、あやふやで申し訳ありません。)
 人は<ものの見方・考え方(認識の方法)>を使ってさまざまな文化を創り上げてきました。あらゆる文化的なものには<ものの見方・考え方>が内在しているのです。ですから池上氏の言は逆に、人間が営々として作り上げてきたものを分かるためには、<ものの見方・考え方>を駆使する必要があるということをも言っているのです。
 「文化」というものが<ものの見方・考え方>を抜きにしては成り立たないという一例ですが,昨年(2003年)の夏,NHKの番組で線香花火を取り扱った番組がありました。大まか次のような内容です。
 線香花火は200年以上も前からあって,日本が生み出した芸術作品です。日本産は一旦絶滅して,線香花火というと中国製だけになってしまった。中国産と日本産は同じように見えるけど,よく鑑賞すると異なる。
 中国産は,パチパチパチパチと同じ調子で「花」を見せてくれるのに対して,日本産は,「牡丹」→「松葉」→「柳」というように,ほんの十数秒の間に様々な姿を見せてくれると言うのです。実際,昔作られた日本製花火(作られたのは二十年前だったか,それぐらい大事に保管されていたのをNHKのために提供してくれたと言うことです。)の映像が出ました。中国産の「花」が単調なのに対して、日本産はほんとに,いろいろ姿を変えてきれいでした。
 線香花火に使われる火薬は0.1グラム以下だそうです。その番組の中で,<0.1グラムで人生を語る>という言葉がありました。(後日調べたら,線香花火は0.06~0.08グラムの火薬を使うそうです。0.1グラム以上になると,すぐに燃え尽きてポトンと落ちてしまうそうです。)
 前置きが長くなりましたが,<0.1グラムで人生を語る>という言葉に惹かれました。いかにも日本的な見方・考え方だなあと思いました。宗教のことはよく分かりませんが,人生というものは儚い中にも,千変万化,変化に富むものだ(あるいは,変化に富むけど儚い)という見方・考え方,世の中には変化しないものはないという見方・考え方,花火一本一本が異なるように同じ人生はないという見方・考え方,火薬のちょっとした匙加減で花火の姿が変わるように,人生も相手との相関によるという見方・考え方,等々,いろいろな意味をそこに見いだせます。<0.1グラムで人生を語る>と語る花火師は,おそらく<関連>とか<相関>,<条件>等々の認識の方法(ものの見方・考え方)をとっていたに違いありません。ですからその言葉の中に意味を発見するとすれば,そういった認識の方法をとらないと発見できないはずです。
 (花火と人生とは全く関係ないのに,それをつなげて考えています。本来は関係ないのに,ある観点で関係づける見方・考え方を<関連>と言います。それから,火薬の匙加減というのは<条件>の問題です。)
 花火には,全体が紙でできている「長手タイプ」と,手に持つ部分が藁でできている「スボ手タイプ」があるそうです。前者は関東が中心なのに対して,関西は「スボ手」が中心だそうです。(「スボ」は「藁」の意)
 さて,一旦絶滅した日本製の線香花火ですが,近年,昔ながらのスボ手タイプの花火が福岡県の筒井良介さんの手により復活したそうです。また後日調べたら、他の地域でも、「長手タイプ」や「スボ手タイプ」の花火が復活していて、手作業なのでちょっと高価ですが、販売されているようです。
 

 

3 方法と内容は表裏一体

 <ものの見方・考え方(認識の方法)>を使って分かった内容を、<認識の内容>と言います。方法と内容は切り離すことはできません。例えば、<ものの見方・考え方>の一つに*<相関(響き合い)>とか<連環>という見方・考え方があります。環境問題は、これらの考え方抜きには理解できません。といった具合です。
 教育の現場で言えば、教科の内容だけを切り離して教えることは意味がないのです。真に分かったとは言えないのです。教科の内容と、それを分かるための方法をセットで、つまり<認識の内容>と<ものの見方・考え方(認識の方法)>を同時に教えていかなければなりません。そこで身についた<ものの見方・考え方>は,別の教材や別の場面でも有効に働くのです。

 

4 系統指導

 <ものの見方・考え方(認識の方法)>というのはいくつぐらいあるでしょうか。もっとも基本的で大事な<比較(類比・対比)>からより高度な<矛盾>まで,十数通りしかないのです。それが分かる学年,教材で,順を追って教えていくことが大切です。それを「系統指導」と言っています。その詳細は,「ものの見方・考え方」のページに譲ることにします。そのページには,低学年で教えたい認識の方法,中学年で教えたい認識の方法,高学年で教えたい認識の方法,中学校で教えたい認識の方法について,順を追って説明しています。さらに詳しくは,著作物を参考にしてください。

 

5 国語科の他の領域との関連

 国語科に限定して言えば、文芸の領域のみならず言語・文法の領域、説明文の領域、作文(表現)の領域など、それぞれの領域の独自性はあるけれど、<ものの見方・考え方(認識の方法)>は、あらゆる領域で共通です。文芸を分かるために使った考え方を、他の領域でも使うことで、例えば説明文なら説明文がよく分かると言うことです。いや、<ものの見方・考え方>を使わないと結局のところ何も分からないということです。
 作文指導でも,子どもの書いてきた作文を書き直しするのではなくて,見方・考え方を変えてやることで,いい作文になったりします。(作文指導のページを参照してください。)
 文法指導では,例えば1年教材「くじらぐも」で<~~も>という表現が繰り返し出てくるので,そういったところで取り立てて指導するとか,生きた形で指導していきたいです。

 

6 他教科との関連

 他教科との関連と言った場合,二つあります。内容の上での関連と認識の方法の上での関連です。一般的には前者の,内容の上での関連を指すことが多いと思います。どちらも大切ですが、全体構想という場合により大切になってくるのは後者の,<ものの見方・考え方(認識の方法)>の上での関連です。というのも,前者は,内容的に重なりがあった場合のみ考慮されるだけのことだからです。
 <ものの見方・考え方(認識の方法)>というのは、国語科だけに限ったことではありません。他教科においても、しかもどの教材・単元に対しても同じことが言えます。それぞれの教科の独自性はあるものの、いずれも人間が<ものの見方・考え方(認識の方法)>を使って営々と築き上げてきた分野ですから、それを分かるためには<ものの見方・考え方(認識の方法)>を使わないといけないということです。
 それぞれの教科・領域には、独自性があるものの、<ものの見方・考え方>という点では共通性がある。ですから、それぞれの独自性を越えて関連させるとするならば、<ものの見方・考え方>しかないということです。具体的な例を挙げながら説明を加えたいと思います。
・社会科との関連(詳細は後日)
 3年の「自分たちの地域の様子」を例に挙げます。それぞれの地域には,その地域の条件があります。中学年の課題<条件>という見方・考え方を使って考えていくといいでしょう。
・算数科との関連(詳細は後日)
 4年の「グラフ」について考えてみます。これは,それぞれの関係をとらえる際の方法です。中学年の課題<構造・関係・機能>という見方・考え方をしていきます。また、「こんな場合は棒グラフで、このような場合は折れ線グラフを使った方がいい」というように、時と場合によるという見方・考え方は<条件>の問題です。
・理科との関連(詳細は後日)
 各学年の全ての単元を,それぞれ次の一点につなげて一年間考えていくことを考えています。各学年の<ねらい>と言っていいです。

3年 「ものごとは,条件(時と場合)によってちがう」
(<条件・仮定>  「どんな場合」「どんな時」「~だからこそ」「もし~だったら」)
4年 「ものごとは,しくみ・つながりがあると,いろいろなはたらきが生まれる」
(<構造・関係・機能>)
5年 「ものごとは,つれ合って変わるものが多い」「一方が変わると,もう一方も変わる」
(ひびきあい・相関関係)
6年 「ものごとは,全てつながり合っている」(<連環>)


音楽科との関連(詳細は後日)
 これは私の住む鹿屋市で,ある有名な交響楽団(日フィル)の演奏会があったときの話です。たまたま私の席の前列に,連れ合いのいとこが座っていました。りえちゃんというのですが,いとこと言っても,当時まだ小学校3年生ぐらいだったと思います。
 曲名は覚えていませんが,演奏が始まって,ふとその子を見ると,何とも退屈そうな様子です。そこで楽章の合間に,「りえちゃん,似たようなメロディーが繰り返されるから,それに気をつけて聞いてごらん」と,そっと耳打ちしました。
 ところで例えば,モーツアルトの「キラキラ星変奏曲」を思い出してください。それからラベルの「ボレロ」を思い起こしてください。
 実際,ほとんどの曲は,あるテーマがあって,そのテーマが繰り返されるのです。もちろん単なる繰り返しではなく,いろいろ手を変え品を変えしながらですが,そうやって聴く人のイメージを高めていくのです。そして始めと終わりでは全く違った感じがするのに何ら違和感なく,むしろ心地よさを感じます。(始めと終わりの感じは矛盾するのに,止揚統合されている----*西郷文芸学における「美」の定義を見よ。)
 さて,私の耳打ちが利いてかどうか,りえちゃんは後の楽章は真剣に耳を傾けていました。
 わたしは<類比>という見方・考え方(低学年の課題)をりえちゃんに示唆したわけです。
 「ボレロ」が出たついでに私の感じたことを書いてみます。この曲は,「タ~タラタラタラタ~」というようなゆったりした感じの主旋律に対して,背後に「タンタタタタン」というような迫ってくるような緊迫感のあるメロディーが流れます。ゆったり感と緊迫感というのは矛盾するにもかかわらず,違和感がありません。
・図工科との関連(詳細は後日)