西郷文芸学と自分
主に「米寿記念集」から抜粋しています。
お願い 声をお寄せ下さい。西郷文芸学と自分との関わり、或いは西郷文芸学について考えることなどなどです。字数1200字以内。(西郷先生との関わりについては、「在りし日の西郷先生」のページへ寄稿をお願いします。)
順番は機械的な操作によるもので、全く他意はありません。
文芸研との出会い
角谷 隆
文芸研との出会いは、教師になって六年ほど過ぎたときのことです。それまで情熱さえあればなんとでもなると考えていた私は、高学年(五年生)を担任し、今で言うところの学級崩壊を経験します。初めて教育雜誌を手当たり次第読み始めました。すべてに自信を失っていた私は、何よりも授業を何とかしなければと考えました。なかでも国語は何をどうしてよいのかまったく分からず、雲をつかむような状態でした。
そんなときに同じ学校にいた水木先生を通して文芸研を知りました。これが文芸研との出会いでした。札幌の学習会に参加するようになり、小樽の先生方の学習会などにもいきました。そして六年生の二学期、校内の研究授業として取り組んだ「川とノリオ」の授業を通して教室が落ち着いていきます。なによりも教師がよりどころを見つけ、それを土台にして持ち直していったことを実感しました。
私が今もこうして教師をやっていられるのは、文芸研のおかげたといっても過言ではないと思っています。
当時は、関連系統指導、ものの見方・考え方の実践を進めているところでした。西郷先生の話を聞いたり本を読んだりしました。主張が明快で、何を教えてよいか分からなかった国語の学習が、すっきりと理解できました。視点論を学んだときの感動は今でも忘れません。人間認識を育てること。ものの見方・考え方を育てること、芸術教育としての国語など、これが国語教育だと思いました。しかし、なるほどと思いながらもいず自分で実践しようとなると、まったくどうしてよいのやらという状態でした。それでも文芸研の学習会に参加し、遅々として進まないながらもここまでやってきました。
その後、九一年札幌での文芸研全国大会を通して様々な経験をすることができました。西郷先生をお呼びして学習会を開いたり、全国大会に参加し全国の実践を肌で知る機会が増えたりしたことすべてが自分の力になりました。
また、九八年からの第十期青年学校に参加しました。四十歳を過ぎもう青年ではないので行くことはないと思っていましたが、周りの先生方に勧められ、家族の協力を得て二年間通ったことも、楽しく有意義なものでした。なにより西郷先生の話を直に聞けるのですから、こんなうれしいことはありませんでした。
このように振り返ってみると、私の教師人生は、文芸研や西郷先生と切り離せないものだと改めて感じます。
西郷文芸学の奥深い理論は立ち止まることなく進化し続けています。これからも教師でいる開け学び続けていきたいと思います。
最後になりましたが、西郷先生が米寿を迎えられるということで、心よりお祝い申し上げます。これからもお体を大事にし、全国の国語教師の力になってほしいと思います。
(「米寿記念集」より)北海道 角谷 隆
入子型構造と量子力学
-トンネル効果- 樋園哲思
西郷先生の講義の中で、よく宇宙物理学や量子力学の話が出てきて、僕はひょっとしたら文芸学の話より目を輝かして聞いていたかも知れません(僕はそういった類いの啓蒙書を読むのが昔から好きでした)。文芸学講座を聞けなくなって非常に残念なんですが、そういう、一見文芸学とは全く関係のない話を聞けなくなったことも非常にさみしいです。
しかし西郷文芸学は、宇宙物理学や量子力学と全く関係がないわけではない。却って深い繋がりがあるのではないか、ということに皆さん気づいておられるのではないでしょうか。西郷理論でよく登場する「二相ゆらぎ」、この「ゆらぎ」という現象も量子力学で「量子のゆらぎ」とか「真空ゆらぎ」などという形でよく登場します。このちんぷんかんぷんなところがまた面白いです。
いつか聞いてみたいと思っていたことがありました。ところが話を聞く機会もなくなりました。聞いてみたかったというか、確かめたかったことは、自在に相変移する入子型重層構造(略して「入子型構造」)についてです。
量子力学と言えば、先生の話の中にも時々登場した、不確定性原理というのがあります。光子とか電子などは粒子でもあり波でもあるという、古典物理学では粒子と波の複合形象なんてちょっと考えられない存在です。本来大きさのない点みたいな粒が、ぼわっと広がりのある波でもあるなんて、ちょっと変です。しかもどこに現れるかは確率的だというのです。こんな話をされる時には、最後には「分かってもらえないだろうなあ」という顔をされていたように思います。
ところで、粒子はニュートン以来の古典物理学では到底飛び越えられない壁を乗り越えて、壁の向こうに現れることもあるんだそうです。僕が山に向かって投げたボールが、山の向こうに現れるようなものです。まるで壁(山)にトンネルができたみたいだということで、これを「トンネル効果」と言います。極微の世界では、粒子が神出鬼没なんです。
このトンネル効果のおかげで、ビッグバンが始まり、もろもろのことが起こり、現在の宇宙ができたといいます。また半導体やリニアモーターカー等々、現代社会の多くの場面でもこの理論が生かされているそうです。(江崎玲於奈は江崎ダイオード又はトンネルダイオードでノーベル賞を得ています。)
粒子がどこに現れるか分からないというこのトンネル効果、西郷文芸学の入子型構造と似ていませんか?入子型構造では、作者が相変移して話者に変身したり、或いは視点人物を飛び越えて対象人物に変身したりとか、神出鬼没的なところがあります。このトンネル効果が、西郷先生の入子型構造の説明に、非常に符合するので驚いています。
こんな話を先生にしたら、「ふん」と言って苦笑いされたでしょうか、それとも・・・
文責 鹿児島文芸研 樋園哲思
社会から国語へ
藤崎 豊
文芸学という一つの理論を体系的に学ぶことによって、他の研究団体(歴教協や数教協など) の理論なり、主張なりがより分かるようになってきました。その結果、授業の奥行きが深まったように感じています。
(「米寿記念集」より)高知 藤崎豊
ねじれゆく教育を正していく
きったかひとし
『文芸研』にふれていく中での最大の喜びは、「子どもの魂(こころ)を育てるとは、子どものいのちに燈(ひ)をともすことなんだ」「これこそが、文芸と一体の基軸になるものだ」と、教育の根っこに目を向けさせられたことでした。
(「米寿記念集」より)広島 橘高ひとし
教師という路
松山幸路
西郷文芸学と出会えたのは、教師という道を選んだから。でも、仮に自分が教師とは別の道を進んでいても、自分は西郷文芸学を必要としていたはずだとも思います。
(「米寿記念集」より)大阪 松山幸路
君は授業が下手だ
水木章雄
一九八二年、国語の授業に苦しんでいた時に、先輩に勧められ、「大きな白樺」の分析を読みました。〈形象の相関性〉とかだったと思いますが、分からないながら、よく分かったと言うか、衝撃でした。それまでは、教科研も児言研もやりましたが、ストレスがたまっていました。課題解決も始めていまして、ストレスはピークに達していました。そこへ西郷文芸学でした。衝撃と言うかショックと言うか、世の中にこんなすごい国語があるとは。『全集』もすぐに買い求め、青年学校にも入り、夢中で勉強しました。
(「米寿記念集より)北海道 水木章雄
幸せなこと
斎藤千佳子
西郷先生の講話の魅力は、毎回、哲学の授業を受けているような深い感銘を受けます。ものの見方や考え方はもちろん、人と人のつながりを大切にする心を学びました。西郷文芸学に出会わなければ、子どもの見方も一面的でずいぶん傲慢な見方しかできていなかったのではないかと思います。
(「米寿記念集」より)青森 斎藤千佳子
盃
荒木英治
(「文芸研と法則化、どっちを選ぶかはっきりしろ」と言う)西郷先生の熱心さには、もちろん法則化への憤りもあったと思いますが、同時に、私のような迷える一若輩教師をなんとか救おうとする温かさがあったのではないかと思います。
(「米寿記念集」より)広島 荒木英治
教師としての筋道を
藤井和寿
子どもの見方を大きく変える出会いがありました。子どもを丸ごと認め、意欲を持たせる指導法である(虚構の作文指導)は、子どもたちの作文や詩の見方を変えるばかりか、教育観を変える衝撃的なものでした。
(「米寿記念集」より)広島 藤井和寿
出会いは無理やりやって来る
石野訓利
(「来い」という先輩の言葉に)逆らうわけにもいかず、指定された羽根小学校に出かけていきました。すると、そこには白髪であごひげをたくわえた背筋のピンと伸びた一人の紳士(その時、僕にはそう見えたのです)が、教室に座っておられました。これが西郷先生との初めての出会いでした。
その時の講義は今でも鮮烈に記憶に残っています。新美圉吉の「かげ」を教材として、〈類比〉〈対比〉《イメージの筋》《内の目》《外の目》という用語に、初めは何がなにやらわからなくて戸惑っていたのですが、最後に《認識の内容》の説明があったとき、「あっ!これだ!これが僕が求めていた国語なんだ。」と目から鱗がポロポロとこぼれ落ちる思いを抱きました。
(「米寿記念集」より)高知 石野訓利